施政方針演説

なんということもなく記事の見出しを書いてから、「施政方針演説」なんてご大層な言葉のいま現在の日本国における信頼度の統計かなんか取ったとしたら、「マニフェスト」とかと一緒に相当な下位に落ち込むんじゃないか、とふと思った。
政治家に関しては古代ローマよろしく完全無給の志願制にしたら面白いんじゃないかと常々思っている。そんなことしたら日本が破綻するやんけ! と常識的な頭の一部が叫ぶ一方で、いやいやもう十分破綻してるだろ、案外変わらないんじゃない? と別の部分が囁いてくるような錯覚。まあ、実際には起こりえないことだからどうだっていいんだけれど。それよりは中国が宣戦布告してくるほうがまだ起こりうる事態かもしれない。

この駄文のなにが施政方針演説なのか、グダグダじゃないか。そんなところまで現実の政治家をなぞる必要はないのだ。
さておき、このブログは思いついたことを適当に書いてぽんぽんと投げ込む場所になる予定である。ブドリがわけもわからず投網を投げるのはてぐすを引っ掛けるためだが(ちなみにネネムの場合はこんぶを獲るために投げていたわけで、なぜ対象がこんぶからてぐすに変化したのかとか研究するのも結構面白そうだといま思った)、俺が文章を投げるのはただ投げたいがためである。ここまで書いて「じゃあブログタイトルをさっきの『投げるんだよ。投げるんだ(ry』にしたほうがよかったんじゃないのか」と思いついたがすべてあとの祭り。最初の勢いというのは結構大事だと思うのでここはあえて変更せずに行くとする。

ついでに、どうでもいい文章を投げておくのはあとで読み返したいからでもある。基本的にはすべての人間についてそうだと思うんだけど、ことにブログをわざわざ開設するような手合いは絶対にそうだと思うんだけど、自分が書いた文章のこと好きでしょ? 自分が今まで読んで好きだった作家や物書きやいろいろの文章の蓄積というのは現代の人間であればほぼ全員が持っていて、特に様式や規則なしで好きに書く文章であればそういう自分の好きな要素を好きなだけ突っ込めるわけだからそりゃ自家中毒し放題にもなろうというもので。
さらに自分が書いた文章大好きーな手合い(≒勢いでブログ作っちゃうようなタイプ)というのはノートに書いた文章を自分ひとりだけで読み返してにやにやするだけでは満足しきれないのだ。独断だけどきっとそうだと思う。いや、ほかに手段がなければヘンリー・ダーガーよろしくいついつまでも閉じた世界で書き続けるだろうけど、逆にヘンリー・ダーガーがもしいまこの瞬間生きてたらきっとブログなり個人ページなり作ってWebの海に自分の妄想の塊を思うさま投げつけるだろう、と半ば確信している。根拠はないけどもね。